荒木経惟

はじめに: 「アラーキー」写真人生の概要

荒木経惟(1940年生)は、日本を代表する写真家であり、そのキャリアは1960年代から現在まで半世紀以上にわたります。彼は**「アラーキー」の愛称で知られ、私的な日常の記録から過激なヌード表現まで膨大な作品群を発表してきました。その出版した写真集の数は500冊を超え、世界でも類を見ない多作ぶりです 。荒木の写真テーマは一貫して「エロス(生)とタナトス(死)」**の二律背反に貫かれています 。本研究では、荒木経惟の写真芸術を以下の六つの観点から考察します: (1) ヌード美学, (2) 都市表現(都市論), (3) 生と死のモチーフ(死生観), (4) 重要作品リスト, (5) 写真芸術に対する彼自身の視座, (6) 批評家・研究者による評価。荒木の作品世界はスキャンダラスな面と詩的・私的な面をあわせ持ち、単純な評価を許しません。本稿では学術的な分析と批評的視点を交えつつ、荒木経惟の写真表現の全体像に迫ります。

1. ヌード美学: 荒木経惟におけるエロス表現の特質

荒木経惟は露骨かつ奔放なヌード写真で国際的に物議を醸した写真家です。その写真には緊縛された裸婦や性的行為の場面など過激なイメージが登場し、一見するとポルノグラフィと紙一重にも思えます 。しかし荒木のヌード写真は、単なる性的刺激以上の美学的・人間的な深みを持つと評価されています。

まず指摘されるのが、被写体である女性との親密な信頼関係です。荒木の写真に写る裸の女性たちは、多くの場合カメラ(=荒木)に視線を向けています。しかしその眼差しは鑑賞者ではなく撮影者である荒木に注がれており、鑑賞者とは交差しないと分析されています 。言い換えれば、モデルは写真の中で荒木だけを見つめており、未来の不特定多数の観客は意識していないのです 。このため写真を見る者は、モデルの視線が自分を越えて撮影者に向かっていることに気づき、フレーム外に**“不在”であるはずの荒木の存在**を強烈に意識させられます 。評論家の秦野真衣は、この構造によって鑑賞者は写真家かモデルの立場に自己を重ねて見ることを余儀なくされ、結果として写真に写っているのはポーズそのものではなく「作者とモデルの間にある絶対的な信頼関係」だと指摘しています 。荒木のヌード写真は、単なる視覚的な裸像ではなく、被写体との濃密な関係性そのものを写し出す点に独自性があります。

荒木自身も、モデルとの肉体的・精神的な一体感を写真制作の核心と捉えていました。2010年のインタビューで「どうやって被写体に親密に近づくのか」と問われた荒木は、「セックスだよ。撮影の前戯みたいなものさ」と語り、「モデル全員と寝たのは確かだ」と冗談めかしつつ明言しています 。この発言は半ば挑発的ですが、実際に彼が被写体との肉体的接触も辞さない覚悟で信頼を築いていたことを物語ります。被写体との境界が曖昧になるほどの「巻き込み型」の撮影手法は、荒木のエロス表現の真骨頂と言えるでしょう。

また荒木のヌード美学は、「ありのまま」を捉えるリアリズムにも支えられています。彼の写真に登場する女性は必ずしも若く完璧な肉体美のモデルだけではありません。皺や贅肉のある中年女性など、従来の商業ポルノが避けるような被写体も多く撮影しています 。荒木は「美しく加工されたポルノ写真は人の心に訴えない。セックスの汚さこそ人を惹きつける」と述べ、ありのままの肉体を曝け出すことに美学を見出しています 。実際、彼の友人たちは荒木の写真では「ヌケない」と不平を言ったそうですが、荒木は観客を喜ばせるためではなく自分自身のために撮っているのだと語ります 。「隠してこそ花」という日本の色欲表現の伝統(秘すれば花)に反し、「すべてを見せる」アプローチをとる荒木のヌード写真は、エロスを究極まで突き詰めたがゆえにかえって人間の本質に訴える力を持つというのが彼の主張です 。実際、荒木の作品には被写体の恥じらいやエゴまで写り込んでおり、例えば彼が撮影した**「人妻エロス」**のポートレート群では、「家族にバレたらどう言い訳しよう」というモデルの心の声までもが写真に写り込んでいる、と本人が解説しています 。荒木にとって写真とは、美しく繕った虚像ではなく、生々しい人間の物語を写し出す手段なのです。

もっとも、その露悪的とも言えるヌード表現は常に論争の的でした。日本国内では1980年代に荒木の写真掲載誌『写真時代』が「あまりに過激なヌード」によりわいせつ物陳列罪で摘発を受け休刊に追い込まれた例があります 。海外でも、西欧の文脈では荒木の女性ヌードは長らくミソジニー(女性蔑視)的と見做され、美術評論家からポルノまがいだと非難されることも少なくありません 。しかし近年、彼の全貌を紹介する大規模展覧会(たとえば2018年ニューヨークの**「The Incomplete Araki」展**)では、あえてこの物議を正面から扱い、観客に荒木作品の二面性を体感させるキュレーションが行われました 。そこでは荒木の過激な縛り写真と、対照的に私的でセンチメンタルな作品(亡き妻・陽子との物語など)を同じ空間に並べることで、一方的な見方を覆す試みがなされています 。結果、荒木のヌード写真は「女性をモノ化しているだけではない」という再評価も生まれつつあります 。彼自身、「写真は現代の春画みたいなものだ」と語り、江戸時代の浮世絵色図(春画)の域に達したいと抱負を述べています 。伝統的エロティカへのオマージュすら含め、荒木のヌード美学は低俗と高尚の狭間で綱渡りする独自の芸術領域を切り開いたといえるでしょう。

2. 都市論: 東京という舞台と荒木写真の関係

東京、とりわけ新宿を中心とした都市空間も、荒木経惟の重要な被写体であり続けました。荒木は下町・三ノ輪の生まれ育ちで 、幼少期から東京の**「生」と「死」の両面に触れてきました。家の向かいには遊女の亡骸を投げ込んだ浄閑寺(投げ込み寺)があり、そこで死に触れつつも路地では子供たちと遊びまわったといいます 。そうした原体験からか、彼の写真には都市の日常と死の影**が同居する独特の視線が通底しています。

荒木が最初に評価を得た作品も、東京の下町風景でした。大学卒業制作として撮影した**『さっちん』(1964年)は、下町の子供たちの姿を生き生きと写し取り、第1回太陽賞を受賞しました 。高度成長期の東京オリンピック直前、急速に変貌する都市の中に残る戦後の面影を捉えたこの作品は、急激な都市化へのノスタルジーも孕んだ記録として評価されています 。荒木はその後も広告代理店勤務を経て1972年にフリーとなりますが、この独立直後に「東京再発見」とも言うべき精力的な都市撮影を行っています。1972年から74年にかけて、荒木は三脚を担いで職もないまま東京を彷徨い、退職金で購入した中判カメラ(ペンタックス6×7)やローライフレックスでひたすら東京の街を撮影しました 。この時期の写真群は、のちに『東京は、秋』(1984年刊)や『東京』(1972年に自費出版)、『終戦後』(1993年刊)、『私東京(過去)』(1993年刊)などの写真集にまとめられています 。荒木は当時の日記に「都市はなんの感動もなく写っていった。都市は風景であった。都市は写真であった」と綴り、「写真とは風景=死景ではないか」という思想に至ったと記しています 。彼はカメラを手に街に佇みながら、「自分は現実の中にいるが、シャッターを押して写真にしてしまえばそれは死んだ風景**だ。現実を写真に閉じ込めてはならない」とまで書き記しました 。この言葉には、写真に撮ることで生の現実が静止画という「死」に変わってしまうという彼のジレンマが表現されています。荒木にとって東京の街を撮ることは、現実(生)と写真(死)とのせめぎ合いでもあったのです。

しかし実際の荒木の作品を見ると、彼はむしろ積極的に「写真=死景」を受け入れつつ、なお街の生を切り取ろうとしています。彼は「現像するな、現実が風景になってしまう」と書きつつも写真集を刊行し続けました。それは、生の都市を留めたい欲望と、写真が持つ死の性質を自覚する理性との葛藤であり、荒木の都市写真の底流にあるドラマと言えるでしょう。事実、荒木の東京写真には**「死の匂い」を纏った風景が頻出します。例えば彼が長年撮り続けた東京の空の写真シリーズ「空景」は、モノクロの空に亡き妻・陽子への思いや自身の無常観を投影したような作品でした 。一方で路上のスナップには、生々しい人間模様や猥雑な都市のエネルギーが写り込んでいます。荒木は1970年代の新宿も活発に撮影しており、伝説的なストリップ劇場や盛り場の情景も収めています。とりわけ1980年代に彼が編集者と共に新宿歌舞伎町の風俗街に繰り出して撮影した『東京ラッキーホール』(1990年)は、売春クラブの密室を客の視点で記録した衝撃的な都市ドキュメント**でした 。この作品では荒木自身が「客」として行為に加わりながら撮影し、欲望渦巻く街の裏側を内部から描き出しています 。荒木は新宿という都市空間を、エロスの舞台としても活写したのです。

荒木にとって東京は単なる風景ではなく、自身の人生と重ね合わせた物語の舞台でした。彼の写真日記シリーズでは、同じ一冊の中にベッドでのヌードと路上の風景と空の写真が並置されることもあります 。これは私的小宇宙としての東京—自分が生き愛し喪った全てを包む場—を表現していると言えるでしょう。実際、『東京物語』(1989年)や『TOKYO NUDE』(同年)といった作品では、生まれ育った昭和の東京から平成への移り変わりを自身の人生と重ねて描いています 。妻・陽子との思い出や彼女の死も東京の風景に織り込まれ、都市の時間と個人の時間の二重露出のような効果を生んでいます。

批評家の八角聡仁(=アート評論家・安岐真人)は荒木の都市写真を分析し、彼の展覧会タイトル「東京コメディー」にちなみ「東京という都市のドキュメンタリーであると同時に、その表象枠組みそのものを問い直す分子状の喜劇である」と評しました 。荒木の東京写真は、従来の記録写真がもつ悲劇的・劇的構造(戦後の混乱や再生といった大きな物語)を解体し、断片的で個人的な喜劇=日常の集積として東京を描き出しているというのです 。その指摘通り、荒木の写真における東京は**「イメージとして再現」されるのではなく、語り手である荒木本人の身体と語りの形式を通じて反復されるといえます 。例えば陽子亡き後の荒木は、生と死の狭間にある存在(トカゲのミイラ=ヤモリンスキーなど「生きても死んでもいないもの」)やオモチャの動物などを街のメタファーとして登場させ 、陽子不在の東京に新たな物語性を付与しました。このように荒木の都市表現は常に自己の内面の投影であり、現実の東京そのものというより荒木にとっての東京=「私東京」**なのです 。

興味深いのは、荒木が社会派写真家ではない点です。彼は同時代の土門拳や東松照明のような社会的テーマを前面に出すことはなく、学生運動や政治には深入りしませんでした。しかし全く無関心だったわけではなく、自身の写真世界の中で独自に反映しています。たとえばPseudo-Reportage(偽ルポルタージュ)と題した1970年代末の作品では、報道写真風のイメージに虚偽のキャプションを添えることでドキュメンタリーの信憑性を揺さぶりました 。また2011年の東日本大震災の後には、東京の自宅ベランダから福島方面の空を撮り続けた「東ノ空」シリーズを発表しています 。直接的に瓦礫や被災地を撮るのではなく、東京から見た空という間接的なモチーフで震災と向き合った点にも、荒木流の都市と社会への眼差しが表れています。新宿の路上スナップであれ、自宅から見上げる空であれ、荒木にとって写真に写る都市風景は常に自己の生の延長であり、人生という劇場の背景だったのです。

3. 死生観: 「生」と「死」を巡る写真表現

荒木経惟の作品世界を語る上で、死生観の問題は避けて通れません。彼は自身の写真哲学を表す言葉として**「エロトス」(Erotos)を好んで用いました。これはエロス(Eros=生・性愛)とタナトス(Thanatos=死・死欲動)を組み合わせた造語であり、生と死の世界を自在に行き来する荒木の資質を端的に示す言葉です 。実際、荒木の写真には官能と死臭が奇妙に同居します。咲き誇る花や裸婦の官能的な姿があるかと思えば、棺に横たわる亡骸や朽ちゆく風景が現れる。その振れ幅こそが荒木作品の本質であり、彼自身「写真狂(写狂)であり、生きることと写真は同じこと」だと語るように 、写真=生の讃歌であると同時に写真=死の記録**でもあるのです。

荒木の死生観を決定づけた最大の出来事は、最愛の妻・荒木陽子の死でした。陽子は荒木が電通時代に出会い1971年に結婚した女性で、荒木にとってもっとも頻繁に撮影した被写体でもありました 。新婚旅行では京都や九州への旅を撮影し、自費出版の写真集『センチメンタルな旅』(1971年)としてまとめています 。同書は私写真の先駆と位置づけられ、単なる新婚生活のスナップ集を超えて「生の世界から死の世界へ、そして再び生へと回帰する神話的な物語」として構成されていると評されました 。当時まだ若かった荒木夫妻に直接の「死」は訪れていませんでしたが、愛の絶頂にどこか死の予感を忍び込ませるような感性が既にあったのかもしれません。実際、荒木は『センチメンタルな旅』あとがきで「私小説こそもっとも写真に近い」と書き、自分と身近な他者との関係性を繊細に綴る私小説のような写真=「私写真」が自身の基本姿勢だと述べています 。その延長線上で、陽子との関係も普遍的な生死の物語として写そうとしていたのでしょう。

しかし1989年、陽子が子宮癌で倒れ、翌1990年に亡くなってしまいます 。20年連れ添ったパートナーの死という悲劇に対し、荒木は写真家として全身全霊で受け止め、作品として昇華することで乗り越えようとしました 。彼は陽子の死の間際から葬儀、そして死後の日々までをコンパクトカメラで丹念に撮影し続け、それを写真日記「冬の旅」と名付けます 。そして奇しくも陽子との新婚旅行から20年後の1991年、かつての『センチメンタルな旅』(1971年)とこの「冬の旅」(1990年)を一冊に併せた写真集**『センチメンタルな旅・冬の旅』(新潮社)を刊行しました 。新婚時代の白黒写真と、病床の陽子や棺の中の陽子、そして花で飾られた遺体のカラー写真が交錯する構成は、まさに愛と死の往復書簡のようであり、荒木がそれまで積み上げてきた私写真の集大成と評価されました 。特に陽子の棺の写真(花に埋もれ眠る陽子)は有名で、愛する者の死をも飾らずに撮り切った荒木の姿勢に賛否両論が巻き起こりました。写真家の篠山紀信はこの作品をめぐり荒木と意見が対立し、絶縁状態になったとも報じられています 。それほどまでに配偶者の死を曝す行為は衝撃的だったのです。しかし陽子本人は生前から夫の写真行為に深い理解を示しており、『センチメンタルな旅』出版当時には自ら勤務先に持参して上司や同僚に販売したというエピソードも残っています 。荒木も「自分は大した写真家ではないが、被写体(陽子やKaoRiなど)に恵まれた 」と述懐し、陽子をかけがえのないパートナーであり被写体と認めています。したがって『冬の旅』は陽子の協力なくしては成立し得なかった作品であり、単なるプライバシーの暴露ではなく夫婦の共同作品**と見ることもできるでしょう。

陽子の死以降、荒木の作品には一層ストレートに「死」が取り込まれるようになります。1990年代前半にかけて、彼は**「第2のラウンド」とも呼ぶべき創作期に突入し、緊張感みなぎる名作写真集を次々と発表します 。たとえば『空景/近景』(1991年)は「空(=虚無、喪失)」と「近くの風景(=日常、生の名残)」を対比させた作品で、妻を失った喪失感と生の手触りを同時に表現したと読み取れます 。また『エロトス』(1993年)はモノクロで撮られた花弁や果実、人体の接写による抽象的な図版集で、直接的な性表現を含まないにもかかわらず、濃厚な官能性と無常観が漂う異色作でした 。荒木自身「カラーはエロス、モノクロは死」と語るように、色彩から命を奪ったモノクロ写真で性=生を描くことで、逆説的にエロスとタナトスの二面性を示したのです 。さらに彼は、自身の身体の衰えさえも作品化しています。2008年に前立腺癌が発覚すると、その治療過程を記録した『東京ゼンリツセンガン』(2009年)を出版しました 。また長寿だった愛猫チロが2010年に22歳で死去すると、その闘病と死を綴った写真絵本『チロ愛死』(2010年)を発表しています (「愛死」は「愛する死」「ラブ&デス」の意)。さらには2013年に動脈瘤により右目の視力を失うと、撮影したポジフィルムの右半分を黒く塗りつぶした「左眼ノ恋」シリーズ(2014年)を制作しました 。このように荒木は、自らに降りかかる老い・病・死といった負の出来事をすべて写真という表現に変換し続けています。それは、生と死を往来する「エロトス」的な資質そのものと言えるでしょう。荒木は「写真とは嘘であり、写されたものは既に過去(=死)である」と達観しつつ 、だからこそシャッターを切り続けることで生にしがみつくような矜持を持ち合わせています。「写真は死んだ風景だけだ。現像してはいけない」と嘆いた荒木ですが 、彼はそのジレンマを抱えたまま、それでも“生そのもの”を撮りたいという欲望**に忠実でした 。まさに「生きることと写真は同じ」であり 、「命そのものを撮っている」という彼の言葉 は、生と死のせめぎ合いに写真家として向き合ってきた自らの姿勢を端的に物語っています。

4. 重要作品リスト: 荒木経惟の主要写真集と代表作解説

荒木経惟は1960年代から現在まで400~500冊以上もの写真集を刊行しており 、その全てを網羅することは困難ですが、キャリアの節目となった主要作品を以下にリストアップします(刊行年順)。各作品は荒木の表現に新たな展開をもたらした代表作です。

『さっちん』 (1964年) – 東京下町の子供たちを撮影した荒木のデビュー作。第1回太陽賞受賞 。高度成長期直前の下町風俗を活写し、早くも私的な視線郷愁的都市観を示す。

『ゼロックス写真帖』 (1970年) – 電通在職中、社内のコピー機で印刷・製本した私家版写真集シリーズ。全25巻におよび、身近なスナップをゲリラ的に配布 。荒木の**「とにかく撮ってすぐ出す」**という姿勢(後述の「吐き出さないと便秘になる」発言にも通じる )が早くも表れた実験的作品。

『センチメンタルな旅』 (1971年) – 荒木と妻・陽子の新婚旅行(京都・九州)の記録。100点のモノクロ写真で綴る写真による私小説 。親密な性生活の描写も含み公開当時センセーションを巻き起こしたが 、現在では20世紀日本写真集の金字塔と評価される 。

『荒木経惟の偽日記』 (1980年) – 荒木の仕掛けたフェイク写真日記。日付写真的なスナップに偽の日付を散りばめ(例: エイプリルフールや原爆の日の頻出) 、写真の虚実を問う意欲作。**「写真は嘘。撮ったものは全てフェイクラブだ」**という荒木の信条を具現化した作品 。

『写真時代』連載 (1981–88年) – 白夜書房の写真雑誌『写真時代』における荒木の三大連載企画「景色」「少女フレンド」「荒木経惟の写真生活」 。エロ雑誌の枠を超えて森山大道らも参加した実験的誌面において、荒木は全力で自身の作品世界を拡張し、虚構と現実を混淆するスタイルを磨き上げた 。この時期に刊行した『荒木経惟の偽日記』(1980年)、『写真小説』(1981年)、『少女世界』(1984年)などはいずれも私写真の手法を徹底化した著作群である 。

『東京物語』 (1989年) – 昭和から平成への移り変わりの東京を舞台に、自らの過去と重ね合わせた写真集 。下町の古風な情景から新宿の猥雑な光景まで網羅し、モノクロとカラーを織り交ぜて東京と自身の人生のクロニクルを描出。1980年代に相次いだ名作の一つで、同年刊行の**『TOKYO NUDE』**(1989年)と対を成す。

『センチメンタルな旅・冬の旅』 (1991年) – 前述の1971年『センチメンタルな旅』に、妻・陽子の死の記録「冬の旅」を組み合わせた二部構成の写真集 。愛と死のアルバムとして高い評価を受け、第17回講談社出版文化賞を受賞(写真集として初) 。荒木の私写真的アプローチが極致に達した作品。

『東京ラッキーホール』 (1990年) – 1983~85年に荒木と編集者が新宿歌舞伎町の風俗店で撮りためた写真をまとめた写真集 。700ページに及ぶ大著で、日本では一部発禁となりつつも後に欧米でも出版 。性的な狂乱と東京のアンダーグラウンド文化を内側から記録した衝撃作であり、荒木の名をスキャンダラスに知らしめた。

『空景/近景』 (1991年) – 「空(空景)」= 喪失・虚無の象徴としての空の写真と、「近景」= 身近な日常の細部を撮った写真を対比させた写真集 。妻の死後に制作され、荒木の心象風景を色濃く反映。モノクロームの空に浮かぶ雲の連作は、以降彼のライフワークとなる「空」シリーズの原点。

『エロトス』 (1993年) – 荒木自身が定義するエロス=生とタナトス=死の融合を写真で表現した実験的作品 。モノクロの接写による花弁・果物・性器断片などのイメージは抽象画のようでもあり、見る者の想像力を掻き立てる。濃密な官能と死の気配が漂う傑作として知られ 、荒木の美学を象徴する一冊。

『荒木経惟写真全集』(全20巻) (1996–97年)** – 平凡社から刊行。荒木のそれまでの主要作品を網羅した大全集 。各巻にテーマ別構成をとり、「写真狂」と称された荒木の膨大な作品を体系化。これにより荒木は日本の現代写真家としての地位を不動のものとしました 。

『遺作 空2』 (2009年) – 荒木が**「自分の遺作になるかもしれない」という覚悟**で制作した作品集 。2009年1月から8月15日までの日々を日記的に綴った254点からなり、カラー写真にペインティングやコラージュを大胆に施しています 。写真と絵が融合し、エロスとタナトスが渾然一体となった新境地を示す作品。荒木の高い実験精神と創作意欲が感じられる。

『写狂老人A(日記)』 (2017年) – 77歳になった荒木がなお精力的に撮り下ろした1000点超の新作を展示した東京オペラシティアートギャラリーでの個展 。全作品に**「2017年7月7日」**という日付を付し(荒木と陽子の結婚記念日) 、「未来だって撮れるんだよ」と語ったと伝えられる 。自身の過去と未来を繋ぐような構成で、現在進行形の荒木を強烈に印象付けた。同年、東京都写真美術館でも大規模回顧展「センチメンタルな旅 1971-2017-」が開催され 、荒木の歩みを総括する動きが活発化した時期でもある。

※上記の他にも、『夜景堕天使』(1981年)、『少女アリス』(1988年)、『天才アラーキー 写真ノ方法』(1990年)、『Colorscapes』(1991年)、『Love by Leica』(1993年)、『センチメンタルな写真、人生。』(1999年、東京都現代美術館個展図録)、『Tokyo Diary』(2003年)、『晴れた日』(2009年)、『往生写集』三部作(2014年)、『写ルンです / リアル東京』(2020年)など挙げればきりがありません。荒木は**「撮ったらすぐ本にする。じゃないと便秘になる」**と語るほど写真集出版を精力的に続けてきました 。その膨大な作品群は、テーマ・形式ごとに見ることで荒木の全体像が立ち現れてきます。上記リストはあくまで主要な通過点にすぎませんが、各作品が彼の創作上の重要なマイルストーンとなっています。

5. 写真に対する芸術観: 荒木経惟自身の思想と言葉

荒木経惟は型破りな言動でも知られ、「エロ爺い」「写真狂」など自らを揶揄する異名を名乗りつつ、多くのインタビューやエッセイで写真観を語ってきました。その思想は一言でまとめることは難しいですが、根底には**「写真=人生」という信念があります。荒木は「生きることと写真とおんなじ」だと断言し 「シャッターを切ることは心臓の鼓動と同じ、生きている証そのもの」と述べています 。彼にとって写真を撮る行為は生を実感する行為そのものであり、日々撮り続けることが存在証明であり生存戦略**なのです。「写真機のファインダーの中はすべて楽園なんだ」という彼の発言には 、カメラを通じて世界を見ることへの無上の喜びが表れています。

こうした姿勢から、荒木の撮影スタイルは極めて自由奔放かつ刹那的です。彼は完璧な構図や技術的洗練を求めず、むしろ偶然性やノイズを歓迎します。2016年のインタビュー映像でも、録画中に雑音が入ったことをスタッフが撮り直そうとすると、「写真でも雑音が入ってなくちゃダメだ。【…】写真にやり直しは無い。その場が勝負なんだよ。その時の刹那を撮るだけだから。それが私の写真観なんだ」と一喝しています 。荒木は写真に「無駄なものをフレームアウトしよう」とする従来の傾向を批判し、写り込んでしまう余計な要素も含めて瞬間の不可知性を受け入れるべきだと考えます 。シャッターを押す瞬間に、思いもよらない何かが写り込む――そうした偶発性との出会いこそが写真の醍醐味であり、「人生にリテイクは効かないのと同じで、写真も一度きり」なのだという主張です 。このため荒木は「要するに完成度を求めない」とも語っており 、花も女も空もみなそれぞれ固有の魅力があるのだから、一律に整えず感じたままに撮るのが良いのだと言います 。こうしたスナップショット美学は、荒木が森山大道らと共鳴しつつ独自に発展させた部分でもありますが、荒木の場合はそこに私的な愛情やユーモアが濃く加味される点で一線を画します。

荒木はまた、写真というメディアそのものへのメタ視点も持っています。彼はしばしば「写真は嘘をつく」と発言していますが 、これは写真というものが現実そのものではなく複製(コピー)に過ぎず、撮影された瞬間に被写体は過去のものになってしまうという考えからです 。前述の通り若き日に「写真は死んだ風景だ」と書き記したように、荒木は写真の本質に**「死」(停止・過去)を見ています。一方で彼は、写真によって「嘘の恋(フェイクラブ)」を表現できるとも述べ 、虚構を創造する媒体としての写真にも肯定的です。この相反する捉え方は、「虚と実のあわいに写真の面白さがある」という荒木の考えを示唆します。実際、彼の作風はドキュメンタリーとフィクションの境界**を曖昧にし、見た者に「これは現実か演出か?」と問いかけるものが多くあります(例:『偽日記』 や『愛情旅行』(仕込みのラブホテル写真と私的写真を混在させたシリーズ)など)。

こうした写真観は、荒木の**「私写真」というキーワードにも通じます。荒木は自らの手法を「私写真」(I-photography)と呼び、これは日本の文学ジャンル「私小説」にヒントを得たものです 。公的なテーマより自分自身の生活・感情を赤裸々に綴る私小説のように、写真においても自分を素材にすることが最もリアルだと考えました 。1960年代当時、写真界では土門拳的な報道リアリズムや森山大道らの「アレ・ブレ・ボケ」前衛写真が主流でしたが 、荒木の私写真はそれらとは一線を画し、日記的・私的な視点で写真芸術の地平を広げました 。荒木は「写真とは他人を撮って社会性を云々するものではなく、自分の愛と欲望を通して世界を写すものだ」と身体で示したとも言えます。その意味で、彼の写真哲学は極度に主観的でありながら、普遍的な人間のテーマ(愛・性・死)に直結**しているのです。

さらに興味深いのは、荒木のコラボレーション観です。彼は写真制作を共同作業だと捉え、被写体であるモデルとの協働はもちろん、写真集の編集者との協働も重視しています 。インタビューでは「モデルとのセッションで写真はできるし、編集者とのコラボで本がより面白くなる。誰かに見られていると思うと興奮するだろう?」と語り 、第三者の存在が創作意欲を高める面白さを指摘しています 。この発言からもうかがえるように、荒木は観客の存在まで含めて写真行為と考えている節があります。彼が**「シャッターを切るのはウインクするみたいなもの」と言うとき 、それはレンズの向こうの被写体(モデル)との間で交わす密かな合図であると同時に、その写真を見る未来の観客への媚態とも受け取れます。実際、「他人に見られている方が燃える」という趣旨の発言もしており 、写真とは本質的にエロティック(他者の視線を意識した遊戯)な行為であると捉えているようです。こうした奔放な哲学は、荒木が写真を「遊び」として楽しみ尽くしていることの表れでしょう。彼は自分を「写真の鬼(写鬼)」とも称し 、「俺って天才だよ。だけど俺を天才にしてくれたのは女たち**なんだ」と冗談めかして述べています 。被写体である女性たちへの感謝と尊敬すら滲ませるこの言葉からは、写真家とモデルの蜜月関係が見て取れます。荒木にとって写真芸術とは、自分ひとりでは完結しない、人と人との化学反応なのです。

最後に、荒木の写真観の根幹にあるものをまとめれば、それは**「写真とは生そのものだ」という信念に行き着きます。晩年になっても創作意欲は衰えず、彼は「今年は5つぐらい新作展をやりたいね」と意気軒昂に語っています 。体調不良や視力喪失といった困難にも関わらず、「軽やかにイメージと戯れ、観客を引き込む魔術師」であり続けるその姿勢 は、まさに写真=人生と捉える荒木ならではのものです。常にカメラを携帯し(「カメラは俺のパンツ」とまで言っています )、日々出会うすべてのものにシャッターを向けずにはいられない写真狂(フォトマニア)。そんな荒木経惟の芸術観は、一見破天荒に見えて筋の通った一貫性を持っています。それは「写真とは愛欲と無常を写しとる生の営みである」**という哲学に他なりません。

6. 評論家・研究者による評価: 賛否両論とその考察

荒木経惟ほど評価の分かれる写真家も珍しいでしょう。彼の作品は国内外の美術館で高く評価され多数の個展が開催される一方で 、フェミニズムの観点から厳しい批判も浴びてきました。この節では主な評価の軸を整理します。

まず、肯定的評価として挙げられるのは、その奔放な創造力と私写真による写真表現の革新性です。写真評論家の飯沢耕太郎は、荒木を「今や写真界の巨匠」「世界的にも最も知られ人気のある日本人写真家の一人」と評しています 。またマシュー・クローク(SFMOMA学芸員)は「荒木の1971年刊行の写真集『センチメンタルな旅』は20世紀日本の最も重要な写真集の一つ」と位置付けています 。荒木が提唱した**「私写真」の流れは、のちの日本の若手写真家(たとえば川内倫子やホンマタカシら)にも大きな影響を与え、日常を瑞々しく切り取るスタイルの源流となりました 。また荒木の作品数・写真集刊行数の多さは他に類を見ず、その圧倒的なアウトプットそのものが評価対象になっています。「写真に撮りたいという欲望をここまで純粋に、しかも膨大な量で実践した芸術家は前代未聞だ」という驚嘆の声もあります 。さらに、近年再評価されている点として、荒木作品に写る女性像の捉え方があります。先述の秦野真衣の論考は「荒木写真における女性のまなざし」に注目し、モデルが写真家・荒木へ向ける視線の特異性が、被写体の主体性や作品の奥行きを生んでいると指摘しました 。このような分析は、荒木のエロス表現を単純な女性蔑視とは異なる次元で捉え直す動きとも言えます。加えて、荒木の写真日記的手法やコラージュ的表現は美術の枠組みからも評価され、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の「日本の写真」展(1974年)には含まれなかったものの、1979年のICP(国際写真センター)での「Japan: A Self-Portrait」展など欧米でも徐々に紹介されていきました 。1990年代以降はウィーン、パリ、ロンドンなど各地で大規模個展が開催され、世界的なコンテンポラリーアートの文脈に荒木が組み込まれていきます 。1999年に東京都現代美術館で開催された回顧展「センチメンタルな写真、人生。」や全作品集刊行 により、国内でもトップアーティストとしての評価**が確立しました。総じて支持派の論調としては、「荒木経惟は写真というメディウムの可能性を極限まで拡張し、私的領域をさらけ出すことで普遍的な人間性(エロスとタナトス)を表現した稀有な作家である」というものが多いと言えます。

一方、否定的評価や批判も根強く存在します。その多くはジェンダーや倫理の問題に関するものです。荒木の女性ヌード写真は、ともすれば女性を客体化・性的消費するものであるとの批判が昔からありました 。特に欧米の美術界では、荒木の写真は長らく「ポルノと芸術の境界にある挑発的作品」と見做され、フェミニストからの反発も強かったのです 。2018年の#MeTooムーブメントの波及の中で、荒木と長年コラボしていたモデルのKaoRiさん(荒木の作品に16年間登場)が「荒木から経済的・精神的搾取を受けた」と告発する出来事も起きました 。彼女は報酬未払い・一方的な扱いなどを公表し、大物写真家の権力とモデルの弱い立場を訴えたのです 。この告発に呼応して、モデルで女優の水原希子も荒木撮影時の不快な経験を明かすなど、議論が巻き起こりました 。こうした具体的な事例もあり、荒木には「女性へのセクハラ・パワハラ疑惑」が付きまとっています 。もちろん荒木本人は「作品に対する誤解だ」と反論し明確な謝罪などはしていませんが、近年では作品以外の面でも倫理的再検討が求められる状況です。

しかし興味深いのは、西洋のフェミニストから否定されがちだった荒木作品を、同じくフェミニストの立場から擁護・再評価する動きも出てきたことです。ニューヨークのキュレーター、ラスセット・レダーマンは「フェミニストであり荒木の崇拝者であることは矛盾しうる」と認めつつも、Museum of Sexでの回顧展を通じて荒木作品の多面的な価値に光を当てました 。彼女はレビューの中で「荒木は確かに女性を縛り上げ性的対象として撮っているが、一方で亡き妻への深い愛情やプライベートな感傷を作品化しており、その両義性こそが見る者の固定観念を揺さぶる」と述べています 。展覧会では、縄で吊るされた女性の大胆なヌードと、陽子とのハネムーン写真や棺の写真が一つながりの作家世界として提示され、観客は嫌悪と共感、両方の感情を喚起される構成でした 。このように、「荒木の写真は不快だ」と感じた次の瞬間に「しかし非常に繊細で純粋だ」と感じさせるような振り幅があり、その点が評価者を悩ませるのです 。だからこそ荒木の作品は一筋縄ではいかず、議論が続くとも言えます。

学術的にも、荒木経惟はしばしば研究対象となっています。先述の秦野氏の論文のように、視線論・ポルノグラフィ論の文脈で論じられることもあれば、都市論や日本の戦後文化の一側面として分析されることもあります 。また写真史的には、荒木は**「プロヴォーク以後」の世代に位置付けられ、森山大道・深瀬昌久らと共に言及されます。彼らが写真における新たなリアリティを追求した中で、荒木は最も私的で最も多作**な存在として異彩を放ちました 。写真評論家の多くは、荒木を「写真というメディウムの可能性を極限まで試した写真家」として評価しています。同時に、「荒木の登場以降、写真家は自らを曝け出すことが不可避になった」という指摘もあります。それほど荒木の私写真的アプローチは衝撃的で、写真家の自己表現の地平を変えたのです。

総合すると、荒木経惟への評価は極めて両極的です。ある者は彼を稀代の天才と称え 、ある者は好色で悪趣味な老人と蔑みます。しかしその両面は切り離せず、荒木の人物像と作品の魅力はまさにそこにあります 。荒木は自身でも「評判なんて気にしない。好きに撮るだけ」と言い放ち 、周囲の物議をも創作の糧にしてきました。批評家・研究者にとって荒木経惟とは、一筋縄ではいかない挑発的な被写体であり続けています。その作品群は写真芸術のタブーに挑み、見る者に問いを突きつけるため、今後も多角的な分析と議論が積み重ねられていくでしょう。

結論: 荒木経惟という現象

荒木経惟の写真芸術を振り返ると、それは**「エロスとタナトスの饗宴」であり、同時に「東京という舞台で繰り広げられた私小説」でもありました。ヌードと都市、愛と死、虚構と現実――これら相反する要素をすべて呑み込み、荒木はシャッターという名の劇場で自身の人生を演じてみせたのです。その膨大な作品数(写真集500冊超) は彼の情熱と執念を物語り、また作品ごとに賛否を巻き起こし続けた事実は、荒木が常に時代の感性に挑戦し影響を与えてきた証と言えます。学術的に見れば、荒木経惟は日本の写真史における私写真ブームの嚆矢であり、ポストモダン的な自己言及性と大量生産時代のアートの在り方を体現した存在でした。評論的に見れば、その作品は低俗と高尚、美と醜、愛と暴力が同居する矛盾の塊**であり、それゆえに人々の心を騒がせ、深い思索を促す力を持っています。

荒木自身、「俺の写真は**“今”しか写してない**」と言います 。常に現在進行形で生を写し取り、振り返ることなく吐き出し続ける姿勢こそ荒木経惟という写真家を唯一無二たらしめているのでしょう。確かに、彼の写真には不快さや倫理的グレーも含まれます。しかし、それすら包み隠さず提示するからこそ、荒木の作品世界は私たちに人間の本質を突きつけます。エロス(性愛)の極みで見えてくる生の輝き、そして写真という行為に付きまとう死の影。荒木経惟の写真芸術は、その二つをこれでもかと融合させることで、見る者に強烈な問いを発し続けています。「写真は人生だ」と豪語する彼の作品は、まさに写真の力=人生の力を体現しているのです 。

以上のように、荒木経惟のキャリアを貫くテーマ(ヌード美学・都市・死生観)を検討し、主要作品と彼自身の言葉、そして評価の声を踏まえると、彼の写真芸術は単なるセンセーショナルな話題作りではなく、現代における人間と写真の関係性を極限まで探求した壮大な実験だったと言えるでしょう。論理的に整理すればするほど、その本質はパラドックスに満ちているかもしれません。しかし荒木経惟という現象自体が、既成の規範を超えたところで成立しているのです。今なお創作を続ける写狂老人A・荒木経惟。その存在と作品は、写真芸術の可能性と危うさの両方を我々に示し続けています 。これは批評家にとっても幸福な挑戦であり、今後も荒木研究が深化していくことは間違いありません。荒木経惟の写真芸術は、まさに**「終わりなき物語」**として生き続けるでしょう。

参考資料:荒木経惟関連書籍・論文・インタビュー・展覧会カタログ多数(飯沢耕太郎「私写真」論、秦野真衣「私的な視線によるエロティシズム」 、SFMOMAデジタル出版物 、ロッキングオン社『天才アラーキー』、Russet Lederman “Can a Feminist Embrace Araki?” 他)。

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